大和川つけかえ記念公園に行ったよ
でんちゃんです。
↑大雨の後、大和川川が増水します。
増水した大和川を命がけでレポートしています。
↑さて、今回はでんちゃんの身近なスポット、
大和川つけかえ記念公園を紹介するよ。
大和川の付け替えに関しては、wikiペディアを調べてみたよ。
その昔大和川は、生駒山を越えて柏原付近で石川と合流すると、
現在の上町大地(大阪市天王寺区)の北を通り、
海へ流れる流路をとっていましたとさ。
その流れを変えて、現在のように堺の方面へ流れるように川の流れを変えたのが、
大和川の付け替えです。
↑昔の大和川の流路です。
↑付け替えの解説です。
クリックで、拡大します。
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江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川ともいう、本流)・楠根川・玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、吉田川など一部は寝屋川が注ぎ込む深野池(大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の水と長瀬川本流は現在の大阪市鶴見区放出周辺で合流し、さらに淀川支流の古川、同じく河内平野を流れる平野川と次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。淀川はそこからまた安治川や木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。
これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代に遡る。
wikiペディアより引用
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そんな大和川ですので、度々洪水が起こっては、
流域の人が洪水の被害に遭いましたので、
大和川の流れを付け替えようという運動が起こったそうだ。
其の陣頭指揮をとったのが、中 甚兵衛さんだワン。
↑中 甚兵衛さんです。
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中 甚兵衛(なか じんべえ、寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日(1730年10月31日))は江戸時代初期の農民。河内国河内郡今米村(現・大阪府東大阪市今米)の庄屋。次男として生まれた。 大和川の付け替え工事に奔走した人物であり、周辺の芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛らの協力を得て、江戸幕府に大和川付け替えや治水計画を50年近くにわたって嘆願し続け、最後は農民の身でありながら並み居る幕臣に交じって、付け替え工事を指揮した。
甚兵衛の父や家族、初期に付け替え嘆願に携わった関係者等の通説や、甚兵衛の子孫による調査とでは関係者名や活動に関する記述や調査結果が異なるなど混乱が見受けられており、十代目の子孫である中九兵衛が史料の発掘・調査と通説の訂正に取り組んでいる。
wikiペディアより引用
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新しく流れを変えるとき、流域の住民から反対運動があったそうですが、
付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、
なんと、わずか8ヶ月で大和川は堺に向け西流するようになったそうですワン。
↑付け替えの記念碑です。
ただ、付け替えによって下流域に、新たな氾濫地帯や大量の土砂が堺に流れ出し、
堺の港湾としての機能が低下したりと、さまざまな問題も出てきたそう。
とにもかくにも、現在はスーパー堤防も完備し、
大和川が氾濫するという事もなくなりました。
しかし、現在でも雨の日は推移が急激に増加しますので、
雨の日のは、川で遊ぶにはくれぐれも気をつけるワン。
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